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・『MIWA』から
誰でも「もう一人の自分」を抱えていて、成長するにつれて「普通」から逸脱していこうとする彼・彼女らを殺していく。普遍的な物語。
アウトサイダー、マイノリティ(世界と切り離されている。逸脱している。融和しない)、自分を「もう一人の自分」を殺さない守る救うために「普通の世界」と戦う、英雄的物語。折衝。世界を疑う。
私たち(我々我ら・宇宙を我等に、ってSFあたりのタイトルであったよな)は何故こうなのか?普遍的な問い
・フィリップ・ジャンティ
・デヴィット・ルオー
http://www.1101.com/david_leveaux/index.html#
前々から問いとして問題意識としてあった「なぜ過去の戯曲・古典は演じられるのか?」に対するフックになるような
テクストは同じ、演出でアップデート更新される。それは上記の記事を引用すると『現代化』と同じ。
そうではなくて、古典世代から世代へとつながっていく物語を通じて、古代近代昔過去の彼ら我々と手をつなぐ、ひとつの心理問題問い意識謎追い求めるもの分かることのできないもどかしさぐるぐると中心の周りをめぐり続ける届かないとわかりつつ呼びかけることを止めない声や思い行為、ことができるものをつくる。つながる道筋をつくる。
(野田秀樹の演劇の、過去の人物や歴史、物語、事物がずれて引用したりモチーフとなり、現在とつながる融合するテーマとして浮き彫りになるという特徴がそれだ)
演劇にはそれができる。
「いま・ここ」とつながる現前させるたちのぼるもの。
それがただ物語や舞台を「現代化」することとの違い。コミットの差?
→長塚圭司『マクベス』『背』
あと、宮沢りえがノラを演じることによって、演技とは何か、感じたこと何か通じたことから、橋本監督のワークショップで聞いた、『上を向いて歩こう』を歌う演技のシーンで「こころとからだがつながる」瞬間があり、そこでは演じると在ることの境目がなくなっていたというエピソード、ジェーンフォンダのエピソードを思い出した連想した想起された。
あと日本語という言葉の問題。昨日芸劇で見た、韓国の俳優たちで演じられた『半神』
を見たときに感じた違和感ともどかしさ、生じた問題意識と重なる。
ところで韓国語て本当にたたきつけるような言葉だなあ。はねかえるような響き。
いまワァウワァウでやってた蜷川幸雄とマエアツの闘いドキュメンタリー見てます。ニナガワぐう怖。
太陽2068見れなかったけど、どうだったんでしょうか。イキウメの人の戯曲にぴんと来なかったんですがどうだったのか。
マエアツさん女優さんとして成功してほしいなあ。
あと、「タイヤこうか~ん!」ベルトさんかわいい。
うおー
言葉がついてこない。もどかしい。形にできない。前はできたのに、少しでも。ちゅらいつちゅらい。
ああ~
連想ができない
想像なんてできねえ想像力ください